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## 放課後の静寂

茜色に染まり始めた空は、教室の窓ガラスに映り込み、ぼんやりとした光の帯を描いていた。放課後。生徒たちの喧騒は去り、校舎は静寂に包まれている。その静寂を破るのは、時折響く廊下の軋む音と、遠くから聞こえる教師たちの話し声だけだった。

私は、いつものように空っぽになった教室の片隅で、担任の佐々木先生を待っていた。授業の遅れを取り戻すための補習。それは、私の日課となりつつあった。成績は、決して悪くない。むしろ、平均以上ではあったはずだ。しかし、あの夏の日以来、私の集中力は散り散りになってしまった。

「お待たせ、健太」

背後から聞こえた声に、私はゆっくりと振り返った。佐々木先生だ。温和な顔立ちの彼は、いつも柔らかな声で話しかけてくる。まるで、私の心を慮るかのように。

「いえ、大丈夫です」

私は机の上の教科書を丁寧に閉じながら答えた。言葉の端々に、どれほどの弱さが滲んでいるのだろう。先生は、私のそんな様子を、きっと見抜いているのだろう。

「今日の分は、この問題集をやっておこうか」

先生は、一冊の参考書を私の机に置いた。それは、私が苦手としている分野の、さらに難易度の高い問題集だった。私のためを思ってくれているのは分かる。でも、どうしても、その厚みと難しさに、ため息が漏れてしまいそうになる。

「はい」

私は、ぎこちなく頷いた。先生は、私の隣に座り、静かに教科書を開いた。私だけが取り残されているような感覚。この教室にいるのに、まるで透明人間になってしまったような、そんな感覚に襲われる。

夏。あの夏に何があったのか。それは、私自身もまだ、はっきりとは言葉にできない。ただ、あの日の出来事が、私の内側で、静かに、しかし確実に、何かを変えてしまったことだけは、確かだった。

「この問題、どうかな？」

先生の声に、我に返る。私は、先生が指し示した箇所に目を落とした。複雑な数式が並んでいる。頭の中で、言葉が、音符が、光が、渦を巻く。それでも、答えは、どこにも見つからない。

「…わかりません」

絞り出すような声で、私は答えた。先生は、咎めるような様子もなく、ただ静かに頷いた。

「大丈夫。ゆっくりでいいから」

先生は、私の隣に座り続け、時折、ヒントをくれたり、解き方を丁寧に説明してくれたりした。その声は、まるで心地よい子守唄のように、私の荒れた心を少しずつ鎮めていく。

教室の外は、もうすっかり暗くなっていた。窓の外には、街の明かりが瞬いている。いつの間にか、先生は、私のために、懐中電灯を取り出していた。その温かい光が、私の顔を照らす。

「もう遅いから、今日はこの辺で終わりにしようか」

先生は、時計を確認しながら、そう言った。私は、ようやく解放されたような、安堵感と、同時に、何か温かいものが、胸の中に広がっていくのを感じた。

「ありがとうございました」

私は、先生に深々と頭を下げた。先生は、私の頭を優しく撫でた。その手の温かさが、私の心を、じんわりと温めてくれた。

「また明日、頑張ろう」

先生の言葉に、私は、ほんの少しだけ、前向きな気持ちになれた。

教室を出ると、廊下はさらに暗くなっていた。人気はなく、静寂だけが支配している。私は、一人、校門へと向かった。

夏。あの夏に、私は、大切なものを失った。それは、私にとって、あまりにも大きな喪失だった。だから、私は、何もかもが、色褪せて見えた。授業も、友達との会話も、すべてが、遠い世界のことのように感じられた。

しかし、先生の言葉や、あの温かい光、そして、先生の優しい声。それらが、私の内側で、静かに、しかし確実に、変化を起こしているのかもしれない。

校門を出て、夜空を見上げた。満点の星が、きらめいている。その星たちのように、私の心の中にも、小さな光が、灯り始めているような気がした。

放課後の静寂は、私にとって、逃げ場でもあった。しかし、それは同時に、自分自身と向き合う時間でもあった。そして、佐々木先生の存在は、その静寂の中で、私に希望を与えてくれる、唯一の光だった。

明日も、また、あの教室で、先生を待つだろう。そして、少しずつでも、前を向いていけるように、努力を続けていこう。

夜風が、私の髪を優しく撫でた。それは、まるで、先生の温かい手の感触のようだった。

その夜、私は、久しぶりに、穏やかな眠りにつくことができた。

翌日、私は、いつもより少しだけ早く学校へ向かった。教室のドアを開けると、窓から差し込む朝日が、教室を明るく照らしていた。昨夜の、あの温かい光の感触が、まだ、残っているような気がした。

佐々木先生は、まだ来ていなかった。私は、自分の席に座り、昨日、先生が置いていった問題集に目を落とした。昨日は、その厚みに圧倒されていたけれど、今日は、なぜか、その問題たちに、少しだけ、挑戦してみよう、という気持ちになれた。

最初の問題。ゆっくりと、しかし、確実に、私は、その数式を追っていく。頭の中で、昨日の先生の声が、響く。

「大丈夫。ゆっくりでいいから」

その言葉に励まされながら、私は、鉛筆を走らせた。

隣の席の、いつもは賑やかなクラスメイトが、静かに教科書を開いている。彼らの静かな声や、鉛筆の音も、この静寂の中で、心地よく響く。

放課後。それは、私にとって、孤独な時間ではなかった。それは、自分自身と向き合い、そして、自分自身を、少しずつ、再生させていくための、大切な時間だった。

窓の外では、鳥たちが、楽しそうに歌っていた。その歌声が、まるで、私の未来への、応援歌のように聞こえた。

私は、顔を上げ、窓の外の、青い空を見上げた。そして、静かに、微笑んだ。

あの夏の日から、私は、ずっと、暗闇の中にいた。しかし、佐々木先生という、温かい光に導かれ、私は、ようやく、その暗闇から、抜け出すことができたのかもしれない。

放課後の静寂は、もう、私を怖がらせるものではなかった。それは、希望への、静かな、しかし、力強い、序曲だった。

私は、再び、問題集に目を落とした。そして、昨日の私とは、少しだけ違う、確かな一歩を、踏み出した。